利賀村長崎『茂右衛門騒動』

利賀村長崎の『茂右衛門騒動』とは、安政五年(1858)七月二十五日の深夜

から明け方にかけ、利賀村の百姓達が井波町に押し寄せて、米商等四軒を

打ち壊し、首謀者と目された利賀村長崎の茂右衛門が、磔の刑に処せられた

事件です。

事件の背景は、安政五年は冷夏で七月頃には、凶作が決定的になった為、

米の買い占めや、隠し米が横行し米価は平年の三倍まで高騰しました。

これに抗議して七月十一日、金沢で約2000人が、卯辰山から金沢城に

向かって『声合わせ』で抗議すると、この話がたちまち領内の、高岡、氷見、

石動、福光、戸出と騒動が広がって行きました。そして七月二十五日、

井波では何者かの扇動により、ムシロ旗をしたて竹槍や鍬やナタを持った

一団が、井波町の高台にある閑乗寺に集結しまし、

松明を灯し声を合わせて「行くぞ!行くぞ!」と絶叫して、明け方に

町へ約100人が、なだれ込み高瀬屋や米屋等4軒を襲撃しました。

一団が高瀬屋を襲った時、手代の宗二の槍が、利賀村長崎の和助の胸を刺し

和助は死亡し、

事件後、盗賊改方により各村の、裁許、組合長、肝煎等32人が投獄され、

そのうち8人が獄死しました。

そして、首謀者の長崎の『茂右衛門』は、事件後一年以上過ぎた、

安政六年九月に取り調べの後、金沢で入獄されました。

公事場奉行は、磔(ハリツケ)の日を十月十八日に定めて、処刑場のみならず

金沢から井波までの道端に見物人を出すように、おふれを出しました。

十月十七日、金沢を出発した行列は石動に泊まり、十八日、井波を目指し、

行列は、先払いの二人が「見さっせや!見さっせや!」と、声高にふれて、

次に罪状を書いた獄札持ち、槍持ち四人、囚人はモッコに乗せられ、

前後三十人の行列でした。

処刑場の様子や、処刑の方法、槍で茂右衛門が刺された様子、その後の事等

細かく記録され資料として残っていますが、放送するのは不適当と思い、

放送しません。

この事件のことは、利賀村長崎の駐車場の片隅に『義人の碑』、

井波町道の駅近くの処刑場に『慰霊碑』が建てられています。

この事件を図書館で調べましたが、図書館員さんの協力とその当時の、

事細かな記録物に圧倒されました。

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