浅草 浅草寺が身近になる話

先日の新聞記事に、私が小矢部市児童クラブ育成会の講演で、

『浅草 浅草寺が身近になる話』をした事が載っていました。

それを見たリスナーの人が、詳しく知りたいので番組で紹介して欲しいと

電話があり、今日はその話をします。

浅草寺のイメージは、雷の大きな提灯が下がった、雷門が有名ですが

本堂の後に、小矢部市出身者の胸像あります。

それは、大谷米太郎夫婦の胸像です。

大谷米太郎さんは、1881(明治14年)小矢部市の貧しい農家の長男と

して生まれます。体格が大きく相撲が強かったので、各地の相撲大会で

優勝して、賞品稼ぎの日々を送っていました。

米次郎が31歳の時、20銭のお金と母親が作ってくれた沢山の

おにぎりを持って上京します。

小矢部にいた時、相撲で賞品稼ぎをしていたくらい強かったので、

大相撲で砺波山の四股名で、幕下筆頭まで上がるが手の怪我もあり引退する。

その後、相撲部屋の紹介で酒の納入業者になり成功する。

その後、鉄鋼業で成功して日本三大億万長者になりますが、

関東大震災で全てを失う。しかし、震災後の鉄鋼需要を見込み建設した、

大谷製鋼所で利益を上げ、1964年の東京オリンピックの選手村や

ホテルニュー大谷を建設する。

話は浅草寺の話に戻りますが、なぜ大谷米太郎夫婦の胸像があるのか?

その胸像は、雷門をくぐり次の仁王像の入った仁王門がありますが、

この上部に国宝法華経10巻や重要文化財などの宝物を納めた『法蔵門』

全てを寄付され、仁王像は奥さんが寄付されたので、本堂の後ろに

大谷夫婦の胸像がある事がわかりました。

そして、この浅草寺の、1寸8分(約5、5センチ)の黄金の観音様は、

砺波市東保から行かれ観音様です。

時は飛鳥時代、砺波市東保に常福寺という大きなお寺があり、

黄金の観音様が安置された観音堂から行商人に盗まれます。

その後、行商人が泊まった旅籠で旅人に盗まれます。

その旅人が隅田川を渡り船で渡る途中、船が転覆して旅人と共に隅田川に

落ちてしまいます。その観音様が隅田川で漁をしていた、桧前浜成、竹成

(ひのくまのはまなり、たけなり)の網にかかり、領主の土師直中知

(はじのあたいなかとも)が加わって三人で祀ったのが、浅草寺の始まりと

されています。浅草寺の後ろにある浅草神社は、この三人を神様として

祀られていて、江戸三大祭りの三社祭はこの三人の祭りです。

砺波市東保の公園に行くと、1寸8分の観音様のレプリカが石の柱に、

埋め込まれています。

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